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第5回 人事・組織デューデリジェンス担当の役割と限界

人事・組織デューデリジェンス担当の役割と限界

M&Aの成否は、最終的に「人」と「組織」で決まると言っても過言ではありません。財務状況が健全で、法務リスクがなくても、買収後に組織文化が衝突したり、キーパーソンが次々と辞めてしまったりしては、期待した効果は得られません。特に、職員の専門性やチームワークがサービスの質に直結する社会福祉法人にとって、「人」に関する問題は事業継続の根幹に関わる最重要課題です。

そこで重要になるのが「人事・組織デューデリジェンス(人事DD)」です。しかし、人事DDも万能ではありません。労務リスクや制度上のギャップは把握できても、「目に見えない「職場の雰囲気」や「職員の本音」まで完全に読み解くことは困難です。

本記事では、この人事・組織DDに焦点を当て、「何が調査でき」「何を見抜くのが難しいのか」その役割と限界を具体的に解説します。さらに、DDだけでは見えない「人」のリスクに経営者としてどう向き合い、対処していくべきか、具体的な戦略と行動を提案します。

この記事を読めば、人事DDで把握できること・できないことの境界線を知り、見えない『人』のリスクに先手を打つための具体的な戦略と行動指針が得られます。 M&Aを成功に導く「人」のマネジメントについて、一緒に考えていきましょう。

想定読者:

  • 社会福祉法人のM&Aを初めて検討または実施する経営者・役員・管理職および人事・総務の実務担当者
  • M&Aプロセスにおける人事・組織面の課題やリスクを正しく理解し、統合後のトラブルを避けたいと考える経営者・実務担当者
  • 人事・労務分野における専門家(社労士、人事コンサルタント等)の調査結果を有効活用したいと考えている実務担当者

ゴール:

  • 人事・組織デューデリジェンス(人事DD)で何が調査可能で、何が把握困難か(限界)を具体的に理解する
  • 人事DDでは見えない「企業文化」「職場の雰囲気」「従業員の本音」などの定性的リスクを自法人で補完するための具体的な方法や戦略を身につける
  • 社会福祉法人特有の労務管理や人事制度に関する調査ポイントを把握し、M&A統合後の人事トラブルや人材流出を未然に防ぐ方法を理解する

目次

  1. 【人事DDの範囲】調査で『何が』わかるのか?(労務・組織・制度・文化)
  2. 【人事DDの限界】調査だけでは『見えない』リスクとは?(文化・本音・感情)
  3. 【見えないリスクへの対応策】経営者が取るべき4つの行動
  4. まとめ

1.【人事DDの範囲】調査で『何が』わかるのか?(労務・組織・制度・文化のヒント)

人事・組織デューデリジェンス(人事DD)とは、その名のとおり「人」や「組織」に関する事項を多角的に調査するプロセスです。M&Aでは財務DDや法務DDが注目されがちですが、実は労務管理や組織運営の健全性も成功に欠かせない調査領域です。特に社会福祉法人のM&Aでは、職員の処遇や職場環境が利用者サービスに直結するため、人事DDの重要性は高いと言えます。

人事DDで具体的に明らかにできるのは、主に以下のようなポイントです。

  • 労務管理の状況把握: 買収対象法人における就業規則や雇用契約、勤怠管理など労務面のコンプライアンス遵守状況を確認します。例えば、就業規則が最新の労働法令に対応して整備・運用されているか、労働契約書や労使協定が適切に締結・届出されているか等を調べ、未整備な箇所や潜在的な労務トラブルの種を洗い出します。社会福祉法人では職員の時間外労働や休暇取得の状況、福利厚生制度の実施状況などもチェック対象です。労務デューデリジェンス(労務DD)とも呼ばれるこの領域の調査により、買収後に引き継ぐことになる労務リスク(未払い残業代・有給の未消化、ハラスメント問題の有無等)を把握できます。

  • 人員構成と組織体制の分析: 従業員数や年齢構成、離職率、役職者の配置など組織構造上の特徴を把握します。組織図どおりに現場が機能しているか、特定のキーパーソンに業務が集中しすぎていないか(属人化リスク:特定の個人に業務が依存し、その人がいないと業務が回らなくなる危険性)、管理職の層が適切か、といった観点で分析します。社会福祉法人では介護職や相談員など有資格者の配置基準がありますが、その基準を満たしているか、資格・経験を持つ人材が偏在していないかも重要なチェックポイントです。例えば、ある高齢者施設の事業譲渡で、人事DDにより現場責任者が実質1名に依存していたことが判明すれば、引継ぎや後任育成の対策が必要になります。このように組織の形と人材配置の妥当性を調査することで、買収後に組織運営上問題となりそうな点を事前に把握できます。

  • 人事制度とコストの確認: 給与体系・賞与や退職金制度、人事評価制度、福利厚生など人事制度面のギャップを洗い出します。買い手企業(自法人)との制度差異が大きい場合、買収後の統合で不公平感や運用コスト増につながる可能性があるためです。例えば、売り手法人で勤続年数による昇給制度があれば、自法人の能力主義の制度と統合する際の調整策が必要でしょう。あわせて、人件費総額や一人当たり人件費、生産性といった人件費の水準も分析されます。これらは将来のシナジー効果やコスト計画に影響するため、人事DDの段階でデータを把握しておくことが重要です。

  • 組織風土や企業文化のヒント収集: 定量化しにくい部分ですが、人事DDでは組織風土や企業文化に関する情報収集も行います。具体的には、経営理念やミッションの浸透度、現場の意思決定プロセス(トップダウンかボトムアップか)、コミュニケーションの取り方(風通しの良さ)などを、可能な範囲でヒアリングします。社会福祉法人の場合、「利用者本位のケア」を掲げていても現場が書類業務に追われて利用者対応が形骸化していないか、職員同士の助け合い風土があるか、といった点も気になるところでしょう。人事DDでは主に経営陣や管理職へのインタビュー、提供資料(職員アンケート結果や研修資料など)の分析から文化面の傾向を探ります。財務DDが過去の数字分析中心なのに対し、人事DDは買収後を見据えた定性的情報の収集に重きを置く点が特徴です。

以上のように、人事・組織デューデリジェンス担当者は「労務管理の専門知識+組織分析の視点」で対象法人を多面的にチェックします。社会福祉法人M&Aでは、公的補助や行政監査の対象となる人件費の取扱いや、職員の資格要件遵守状況など固有の確認事項もありますが、基本的な調査範囲は一般企業のM&Aと大きく変わりません。プロの調査により、人事・労務面の潜在リスクを可能な限り浮き彫りにすることが人事DD担当の役割と言えるでしょう。

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図1: 「労務DD」と「人事DD」の調査対象の違いを示した図。

青い矢印の労務DDは「過去~現在」の労務コンプライアンス状況の洗い出しにフォーカスし、赤い矢印の人事DDは「現在~将来」を視野にPMI(買収後統合作業)に備える調査であることがわかります。人事・組織DDでは、将来の統合を見据え「人材マネジメント上の課題抽出」まで踏み込む点がポイントです。この図からわかるように、労務DDが『過去の法的リスク』をチェックするのに対し、人事DDは『未来の組織運営の成功』を見据えた調査であり、より戦略的な視点が求められるのです。


2.【人事DDの限界】調査だけでは『見えない』3つのリスク(文化・本音・感情)

人事DDは人に関するあらゆる情報を調べますが、それでも完全には把握できない領域があります。デューデリジェンスの限界として代表的なものを挙げると、職場の文化や雰囲気、従業員個々の意欲や人間関係といった定性的な要素です。これらは数字や書類に表れにくく、短期間の外部調査では掴みきれません。

  • 企業文化・職場風土: 人事DDでは経営理念や社風のヒントを探るものの、実際の職場文化までは深く踏み込めないのが現実です。例えば、表向きは「風通しの良い職場」と説明されていても、実際には現場で部署間の壁が厚い可能性もあります。しかし短い面談や提示資料だけでは、その組織特有の文化(例:現場リーダーのカリスマ性や暗黙の了解事項)は見抜けないことが多いのです。買収後に初めて「実は根深い派閥があった」と気づくケースもありえます。特に社会福祉法人では創業者の理念が強く根付いていたり、利用者本位の精神が共有されているかどうかなど現場文化の相性が事業継続に影響しますが、これも事前調査だけでは完全には評価困難です。

  • 従業員のモチベーションや忠誠心: 書類上は優秀な人材リストがあっても、その人たちが買収後も働き続けてくれるかは未知数です。人事DDでは離職率や従業員満足度調査の結果などから大まかな傾向を掴みますが、個々人の本音までは把握できません。たとえば対象法人のキーパーソンが買収に不安を感じて転職を考えているかもしれませんが、交渉段階ではその兆候をつかみにくいものです。重要な人材ほど社内でも守秘義務のため事前接触が限られるケースが多く、結果として「フタを開けたら主要スタッフがごっそり辞めてしまった」というリスクはゼロにはできません。

  • 将来の現場の融和状況: 人事DD担当者は買収後の組織統合を見据えて助言はできますが、実際に人がどう動くかまでは保証できません。例えば、給与体系統合のシミュレーションや組織図再編案は提示できても、従業員が統合をポジティブに受け入れるか、現場同士がうまく融合するかは予測が難しい領域です。M&Aでは「人の感情」が計画を左右する面があり、人事DD報告書には表れないソフトリスクとして残ります。

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図2:人事DDの限界を示す「氷山モデル」イメージ

以上のように、人事・組織DDにもブラインドスポット(死角)が存在することを認識する必要があります。財務諸表のように客観数値で判定できないため、人に関する調査はどうしても限界があります。大手人事コンサルによるグローバル調査でも、「文化の適合や統合の問題」が原因でM&A後に業績目標を達成できなかったケースが全体の30%に上るなど、文化面の難しさが報告されています。言い換えれば、どんなに専門家が精査しても、文化の融合失敗で3割は計画通りに成果が出ない可能性があるということです。

カルチャーの適合・統合」が問題となったケースでは、業績目標未達、買収効果の発現遅延、契約締結の遅れ・破談や買収価格への悪影響といった事態が生じています。人事・組織DDで文化面のリスクを完全になくすことはできませんが、文化の重要性を示していると言えるでしょう。この事実が示す重要な警鐘は、M&Aにおいて『人と文化』の問題を軽視すると、財務的な目標達成すら危うくなる可能性がある、ということです。


3.【見えないリスクへの対応策】経営者が取るべき4つの行動

人事・組織デューデリジェンスで浮き彫りになった課題への対応はもちろん大切ですが、調査で見えなかった部分をどう補うかが経営者・買い手法人の腕の見せ所です。専門家の報告を鵜呑みにするだけでなく、以下のような施策で人事DDの限界をカバーしましょう。

  • 経営陣同士の対話で文化を感じ取る: 買い手・売り手双方の経営トップや人事責任者が、早い段階から直接対話する機会を持ちましょう。これは単にデータ交換するだけでなく、お互いの経営理念や企業文化、トップの人柄を確認し合う場として有効です。例えば会食や少人数ミーティングを通じて、「福祉にかける想い」「職員に対する考え方」といった価値観の共有を図ります。厚生労働省のマニュアルでも、譲渡側・譲受側の間で頻繁な調整会議を行い、職員処遇についても事前に十分協議しておくことが重要とされています。トップ同士が腹を割って語り合うことで、デューデリジェンス報告書には載らない微妙な文化の違いに気付けるかもしれません。

    その際、「貴法人で最も大切にしている価値観は何ですか?」「職員の失敗をどう捉えていますか?」「意思決定はどのように行われていますか?」といった具体的な質問を投げかけ、表面的な回答だけでなく、その背景にある考え方や組織の空気感を探ることが重要です。

  • 買収後を見据えた人材マネジメント戦略の策定: デューデリジェンス結果を踏まえつつ、買収後の具体的な人材マネジメント施策を事前に描いておきます。特に重要人材のリテンション(Retention:引き留め、定着促進)策は最優先事項です。実務上は、キーパーソンとの個別面談を早期にセットし将来ビジョンを共有する、待遇面でインセンティブを用意する、といった対応が考えられます。

    次に、組織体制や制度統合の方針決定も欠かせません。どの時点で人事制度を統一するか、役職体系をどうすり合わせるか、組織図はどう変更するか――こうした方針を早めに定め、統合後100日プランなど具体策に落とし込みます。中小企業庁の「中小PMIガイドライン」でも、買収後の組織融合に向けて経営ビジョンの浸透、従業員同士の相互理解醸成、取引先との関係再構築
    など段階的に取り組むよう提言されています 。人材マネジメント戦略を描くことは、買収後の混乱を防ぎ、シナジー効果を早期に実現する土台となります。

  • 従業員への丁寧な情報開示と意識醸成: M&Aは従業員にとって大きな不安要素になりえます。「知らない間に会社が変わっていた」という事態はモチベーション低下を招くため、可能な範囲で透明性高く情報共有することが大事です。契約上、公表時期は制限がありますが、クロージング(最終契約)後できるだけ早く全従業員に説明会を開きましょう。また必要に応じ、主要な現場管理職やキーパーソンには事前に非公式な場で説明・意見交換を行い、協力を取り付けておくのも有効です。

    社会福祉法人では職員一人ひとりが利用者対応に責任を負っています。したがって、買収側のビジョンや統合のメリットを腹落ちしてもらうために
    、双方向のコミュニケーション機会を継続的に設けてください。説明会だけでなく、匿名で質問や意見を出せる目安箱を設置したり、部門ごとに少人数の意見交換会を実施したりするのも有効です。従業員の不安を早期に解消し、「新体制でも自分たちは尊重される」と感じてもらうことが、文化の融合と定着の近道です。

  • 統合プロセスへの現場参加とフォロー: 買収後のPMI(Post Merger Integration:買収後の統合プロセス)フェーズでは、現場の声を反映させた統合プロセスを設計しましょう。人事制度の変更や組織再編を行う際、できれば両法人の現場代表者を交えたプロジェクトチームを作り、実務レベルの課題を拾い上げます。例えばシフト管理の方法や利用者対応ルールの統一など、現場職員が不安に思う点を議論してもらうのです。こうした現場参画型の統合作業により、従業員は主体性を持って新しい組織づくりに関われますし、経営陣も知らなかった細部の問題を事前に潰せます。

    また、統合後しばらくは人事担当役員や外部アドバイザーが各事業所を巡回し、困りごとのヒアリングや追加説明会を行
    うフォローも有効です。中小PMIガイドラインでも、「統合後1年程度の計画的なフォローアップ」を推奨しています。人が主役の社会福祉事業において、丁寧なフォローは利用者サービス品質の維持にもつながるでしょう。

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図3:人事DDの限界を補う4つの経営アクション

以上のような取り組みにより、デューデリジェンスで判明した課題への対応は万全を期しつつ、判明しなかった「人」の課題にも先手を打つことができます。ポイントは、「相手を知り、自分たちも変わる」姿勢です。買収側が一方的にルールを押し付けるのではなく、相手法人の良い文化や人材を尊重し取り込む柔軟さも大切です。専門家任せにせず経営トップ自ら人事面の統合に関与することで、数字には表れないリスクを最小化し、M&A成功確率を高められるでしょう。


4.まとめ

人事・組織デューデリジェンスは、M&Aにおける「人」のリスクを照らし出す重要な光ですが、その光が届かない影の部分(文化や本音)も確実に存在します。専門家の報告書は貴重な判断材料ですが、それに依存するだけでは不十分です。最終的に組織を動かし、M&Aを成功に導くのは、経営者自身の「人」に対する洞察力と、丁寧なコミュニケーション、そして未来を創るという強い意志です。

幸い、社会福祉法人のM&Aには公的なガイドラインも存在します。これらを活用しつつ、「専門家に任せる分析」と「自らが向き合うべき対話と決断」を区別し、数字だけでなく「生身の人間」を見る視点を忘れないでください。

人事DDの役割と限界を正しく理解し、統合後のミスマッチを防ぎ、新しい組織で働く全ての人が前向きになれるようなM&Aを目指しましょう。本記事が、そのための具体的な一歩を踏み出すきっかけとなれば幸いです。

次回「第6回 M&A推進体制の構築:専門家活用の選択肢と自法人での進め方」は、これまでの内容を踏まえ、M&Aプロセス全体における自己判断のポイントを総整理します。 本シリーズの全体像や他の関連テーマについては、ぜひ【社会福祉法人のM&Aにおける役割分担の全体像 記事シリーズ】をご覧ください。


参考リンク 

  • 厚生労働省 社会・援護局社会福祉法人の合併・事業譲渡等マニュアル」(令和6年改訂版)– 社会福祉法人間の合併や事業譲渡手続きについて解説したマニュアル
  • 経済産業省 中小企業庁中小M&Aガイドライン– 中小企業M&Aにおける仲介者の役割や手数料の考え方、トラブル防止策などをまとめた指針(2020年策定、2024年改訂)
  • 経済産業省 中小企業庁中小PMIガイドライン- 中小企業がM&A成立後の統合作業(PMI:Post Merger Integration)を円滑に進めるための実務的なプロセスや留意点を整理した指針(2022年策定)。M&A後の事業運営や組織融合におけるトラブル防止、シナジー効果創出に向けた取り組みを具体的に解説。
  • 厚生労働省医政局委託調査医療施設の合併・事業譲渡に係る調査研究報告書(令和2年)– 医療法人や社会福祉法人のM&A事例調査。デューデリジェンスの外部委託状況等についても分析 
  • エスポイント合同会社社会福祉法人M&Aの基本と一般企業M&Aとの違い– 社会福祉法人特有のM&A留意点をまとめた記事。
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